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アート、アイデア、ワクワクいっぱい 珠洲にアート銭湯「宝湯」わいた!ー橋元酒店

印刷用ページを表示する更新日:2019年11月7日更新

 

 

橋元酒店

橋元商店

能登半島の最先端に位置する珠洲市。市政が施行された1954年には38,000人あった人口が、現在は15,000人を切り、本州で最も人口が少ない市に。珠洲市が活性化の起爆剤として2017年に開催した「奥能登国際芸術祭2017」は国内外から注目を集め、多くの人が珠洲を訪れた。

この芸術祭で展示会場の一つとして使われたのが、珠洲で4代続く銭湯「宝湯」である。珠洲市の活性化を担う若き4代目・橋元宗太郎さんにアート銭湯に賭ける思いを伺った。

 

宝湯のおいたち

明治時代に、宗太郎さんの曽祖父が現在の橋元酒店の場所で、芝居小屋「宝座」を作り、向かい側にあった銭湯の経営を第三者から引き継ぎ、酒の小売りも始めたのが今日の原点。

祖父の代には建設業も手がけていたことから、自前で温泉を掘り、源泉を利用した温泉銭湯に。当時の宝座の広間は百畳もあり、2階席も設けてあったとのこと。

橋元商店 

宝座には、当時の有名芸人が数多く出演したそうで、2階の劇場に観客が入りすぎて床が抜けそうになり、慌てて1階から太い柱を立てて落ちないように支えたくらいに人が来たという。ところが、終戦を迎え、娯楽を楽しむ状況でなくなったことから、大広間を細かく区切って客室に改装し、旅館「珠洲温泉 見附荘」を開業する。

それから暫くした昭和29年、松本清張の「ゼロの焦点」が映画化され、能登が全国に知られ、能登観光が一大ブームとなり、全国から観光客が押し寄せ見附荘は活況を呈する。

そんな能登ブームも第一次オイルショックでパタリと途絶え、次第に閑散とするように・・・。昭和が終わろうとしていた頃、父親が旅館業に見切りをつけ、酒屋と銭湯の2本柱に商いを絞り込み、現在の橋元酒店を新築する。

 

出稼ぎ、アルバイトを経て4代目に

橋元商店

宗太郎さんは東京の大学を卒業し、酒屋の後を継ぐことは心に決めながら、4年あまり都内の文化ホールで裏方の仕事をしていた。26歳になり、実家に戻って酒屋を継ぎたい旨を父親に話すも、人件費が出せる状況ではなかったことから、地元の商工会議所に相談に行き、酒蔵で働く出稼ぎの仕事を斡旋してもらい、半年間は家業を手伝い、残り半年間は出稼ぎの仕事をする生活に。

滋賀県の酒蔵に3年あまり行き、4年目は県内の酒蔵で働き、酒造検定2級を取得する。戻ってきて5年目から、家業の酒屋に専念するが、小遣い程度の給料しか出なかったことから、何か活路を見つけるべく試行錯誤していた。

 

 

 

そんな折り、後を継ぐためには経営の勉強が必要だと考え、珠洲市内にあるランプの宿を訪ね、刀祢社長に自らの思いを語り、1年間アルバイトとして働かせてもらう。

橋元商店

刀祢社長が橋元酒店をネットで検索し、宝湯の写真に目を止め、「温泉があるんや、なかなか雰囲気があっていいじゃない。こっちに力を入れてアート銭湯にしたらどうか」とアドバイスされる。

その言葉が胸に響いた宗太郎さんは、ランプの宿で働きながら、休日は宝湯の2階と3階の大掃除を始め、休みのたびに汗だくで片づけた結果、なんと2tトラック20台分のゴミが出たという。

その頃は、まだ珠洲で芸術祭をやる話すら出ていなかった時期だったが、何としてもアート銭湯にしたいと考え、取り敢えず畳と壁、トイレ、空調を改修し、「とにかく自分がやらなくては、銭湯に力を入れたいと固い決意で突き進んだ」と振り返る。

 

 

宝湯が奥能登国際芸術祭の会場の一つに

リニューアルした宝湯を前に、自分はここでやっていくんだと決意を新たにした宗太郎さん。そんなタイミングで、珠洲で映画祭を開催する話が出たり、東映の「さいはてにて~やさしい香りと待ちながら~」の撮影が始まるなど、いろんな人たちが珠洲に来るようになり、中には宝湯を見に来る人もあった。

橋元商店そんな雰囲気の中で、まずは自分が映画祭をやってみようと市に企画書を提出する。ほぼ通るだろうと思い、アルバイトも辞めて準備を進めていたが、残念ながらその企画は通らなかった。結果はダメだったが、せっかくきれいにした宝湯をいろんな人に見に来てもらうべく、自ら短編映画の上映会や落語会などを定期的に開催し始める。

 

 

そうこうしているうちに、奥能登国際芸術祭の開催が決まる。出展する芸術家の一人が市役所に展示会場の相談に訪れ、人が集まる展示場所の一つの候補として宝湯を見に来たところ、一目見て気に入り、展示会場の一つに決まる。「やっと小さな芽が出た思いで本当に嬉しかった」と述懐する。

橋元商店 橋元商店

 

自らのアイデンティティー確立に目覚める

 

橋元商店「いろんなイベントを通じて、多くの人たちとの出会いが生まれれば生まれるほど、相手から自分が何をやっている人間なのかと見られていることを感じるようになり、もっと本業の銭湯の基盤をしっかりしないといけないと考え、銭湯経営を根本的に見直すことから始めました」と宗太郎さんは語る。

それまで重油ボイラーで温泉をわかしていたが、能登半島地震を経て、燃料代が上がり始めたことから、コストを少しでも抑えることで、自分の給料が出せないかとの思いから、昔ながらの薪ボイラーでわかすことを思い立つ。

 

早速、新品の薪ボイラーを見積もりしてもらうと、本体が600万円、煙突に100万円ほどかかることが分かり、それはとても無理だった。そこで、ネットで中古を探し回ったところ、10分の1の60万円で見つけることができた。とはいえ、ネットの情報だけでは不安で、名古屋まで現物を確かめに行き、実際に使っているところを見せてもらい、これなら問題ないと購入を決める。橋元商店

それまで、週に3日ほど営業し、他は休業していたため、お客さんからすると、やっているのか休みなのか分かりづらく、温泉をわかしてもお客さんが来ない日もあり、燃料代が無駄になっていた。

その点、薪でわかせば、ランニングコスト的にお客さんの有無に左右されなくなり、日曜日だけ休みにし、あとは全て営業する形に切り替え、お客さんが安心していつでも入浴できる営業環境が整う。

 

 

 

芸術祭を通じて珠洲の新たな可能性を実感

奥能登国際芸術祭が開催された50日間の期間中、平均して1日500人前後、多い日は1000人を超す来場者で、2階の床が抜けそうになり、昔のように1階から太い柱を立てて支えたことも。

橋元商店銭湯の休憩スペースとしてだけでなく、これからどんな活用の仕方をすればいいか思いを巡らせる日々。ホームページでの情報発信の重要性も痛感していることから、大幅なリニューアルも計画中だ。

まだ有名になっていない若いアーティストたちの作品を展示することで、応援すると同時に、情報発信をサポートするような方向性を模索中。奥能登国際芸術祭が成功裏に終わったことで、珠洲に対するイメージや固定観念に新しい風を吹き込む起爆剤となり、以来、いろんな人たちが珠洲を訪れるように。橋元商店

地元のテレビ番組でお笑いコンビのナイツが珠洲を紹介する中で、ユニークな取り組みをしている銭湯として「宝湯」が紹介され、それを見た視聴者が来訪するというテレビ効果もあった。これも人のつながり、ご縁の賜物である。

  

 

酒店、銭湯、民泊の3本柱

橋元商店橋元酒店の自宅の一部を2年前から民泊として提供するようになってから、外国人の旅行者が年間に200人ぐらい宿泊している。

宗太郎さんが思い描いている珠洲の活性化に貢献するだけでなく、珠洲にあるユニークな銭湯として、少しずつ、少しずつ知られるようになってきていることを日々肌で感じるように。

 

橋元商店宿泊した外国人が、インスタグラムのレビューに感想をアップしてくれるそうで、能登地区でレビューが50件を超えているのは宝湯だけで、それを見て来てくれる観光客が増え、相乗効果が生まれ始めている。レビューは5段階評価の4.5を維持しているとのこと。

 

 

過疎化が進むと、買い物難民と言われるお年寄りが増える。そんな時代にあって、お酒の配達はもちろんだが、生活必需品や食料品を一緒に届けてあげるような付帯サービスも視野に入れた取り組みが求められてくるだけに、近年あちこちで始まっている移動販売も新たな柱になる可能性もある。

酒店、銭湯、民泊の3本柱ができたことで、いろんな人脈を持った様々な人たちとのつながりの輪が次第に広がってきていることを日々感じながら、「いつ遊びに来ても何か発見がある。そんなワクワクを提供できる空間づくりを通して珠洲に人を呼び込み、活気を創出する一翼を担っていきたい」と意気込む。

橋元商店 

2020年秋に開催予定の第2回奥能登国際芸術祭において、アート銭湯「宝湯」がどのような形で輝きを放つか、珠洲の新たな魅力スポットとして、大いに盛り上がることを期待したい。

 

 

 

店舗情報

 

橋元商店 橋本宗太郎さん

商 号有限会社橋元酒店
代 表橋元宗太郎
創 業明治年間
住 所珠洲市宝立町鵜飼2字16番地
TEL0768-84-1211