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日頃そんなに意識することはないかもしれないが、我々が旅行や出張に出かけて宿泊するホテルや旅館で、必ずお世話になる寝具のシーツや掛布団カバー、枕カバー、浴衣などのリネン類。これら使用済のリネン類を施設から回収し、クリーニングし、プレスしたものを再び施設に納品するリース&クリーニングの事業を、昭和39年の創業から60年あまり加賀市で営んでいる北陸リネンサプライ(株)の守岡伸浩社長にお話を伺った。
守岡社長の祖父は、金沢市内で繊維問屋を営んでいた。その守岡家に婿養子として迎えられた父親が加賀温泉の旅館の子息だったことから、本業の繊維のリネン製品を温泉旅館にレンタルで提供することを思い立つ。早速、親戚筋の温泉旅館にも株主になってもらうことで資本金を準備し、昭和39年に会社を設立。タイミングよく、松本清張の『ゼロの焦点』が放映されたことで、空前の能登観光ブームとなり、全国から団体のバス旅行客が殺到する。能登だけでなく加賀温泉にもその波及効果で旅館が増え始め、同社にとっては追い風のスタートとなる。昭和40年代の中頃から、全国各地にリネンサプライ業者が誕生するようになり、全国のリネンサプライの業界団体である(一社)日本リネンサプライ協会が創立55年目であるのに対し、同社は61年目を迎える草分け的存在。

加賀温泉郷の旅館はバブルの頃までは同社のシェアが高かったが、バブルが崩壊し、地元資本が破綻し、全国にチェーン展開する県外資本に代わった段階で、同社との縁が切れるケースが多く発生し、現在は5割前後のシェア。その一方で、福井県のあわら温泉では同社のシェアは8割近く、高い支持を維持してきている。同社の中では、加賀温泉郷、あわら温泉、金沢市内のホテル・旅館がおよそ3分の1ずつ。現在、北陸三県にリネンサプライ業者が十数社ぐらいあるが、リネンサプライ事業は、長細い30メートルプールのような超大型洗濯・乾燥機、プレス機といった設備がないとできないことから、ほぼ同社と同規模のところが主流。1日に15トンあまりの使用済みリネンを洗濯し、乾燥させ、プレスすることを想像すれば、その設備の大きさが分かる。同社が導入している超大型の連続洗濯機は、シーツを投入すると、洗濯、すすぎ、脱水、乾燥まで個別の層にて自動で行い、ベルトコンベアでロールプレス機に流れていくため、途中の作業には一切人手が不要。最新型を導入するには数千万円以上する高額な設備。

現在は社員、パート、外国人実習生の約70名体制で稼働し、15台のトラックで納品・回収してきている。こちらの業界でも、さまざまなコスト増と人手不足が最大の悩み。ドライバーの高年齢化が進んでいることから、若手を採用したいのだが、なかなか求人しても応募がない状況が続いている。工場は18名の外国人実習生が大きな戦力で、「彼女たちがいないとうちの工場は回りません。これからもっと活躍してもらえるように、福利厚生・給与面でも厚遇しています。」と守岡社長は力を込める。給与水準は日本人と同等であることはもちろんのこと、社宅も無償で供与。人一倍頑張って貯金し、家族に仕送りしている実習生たちの姿に守岡社長は感心している。洗濯・乾燥・プレスといずれも蒸気の出る暑い環境のため、夏場はスポットクーラーを設置するなど工夫しているが、熱源のある環境のため、環境面はなかなか難しいのが現実。温泉旅館が主要な取引先のため、日曜祭日の稼働率が高く稼ぎ時のため、同社もそれに対応せざるを得ず、交代勤務で何とか週休二日を実現している。

温泉旅館に新しいリネンを届け、使用済みリネンを毎日回収していた中、温泉旅館が朝食用に炊くご飯の量が並大抵でなく、早朝から大変な仕事になっていることを耳にした守岡社長の父親が、熱海にあった炊飯事業者を視察に行き、温泉旅館からの要望も強くあったことから、炊飯事業をスタートさせる。同じお客さんにリネンと炊飯したご飯を届ければいいので、一石二鳥ではないが、旅館に必要なものを持って行けばいいとの柔軟な発想が根底にある。昭和51年には、旅館だけでなく加賀市内の小中学校の学校給食の炊飯も一手に引き受けるように。バブルの頃までは炊飯事業は右肩上がりで業績が伸びたが、バブルが崩壊し、団体旅行が激減したことで、倒産する旅館が相次ぎ、同社も転機を迎える。

県外資本の旅館は、リネンサプライは採用してくれるものの、炊飯は全国チェーンの強みで安く仕入れたお米を自社で炊飯する先がほとんどのため、炊飯事業の売上が下がり始めていたことから、何か自社でオリジナル商品を開発する必要性を感じた守岡社長は、自らが大好きな厚揚げを使ったいなり寿司を作ることを思い立つ。早速、白峰にある山下ミツ商店の山下社長に、自社のいなり寿司用に分厚い揚げを作ってもらえないかと相談に行ったことが始まり。研究熱心な山下社長と1年余りやりとりを続ける中で、当初は焼かない普通の煮込んだいなり寿司の試作を繰り返していた。そんなタイミングで焼きサバ寿司が世間で話題になったことから、いなりの揚げも焼いてみようかと閃く。焼いてみると、香ばしさが増して美味しくなったことから、焼きいなりに舵を切る。守岡社長は、厚揚げを焼いて大根おろしに醤油をかけて食べるのが好きだったことから、できるだけ甘くない厚揚げに仕上げたいと考え、山下社長と試行錯誤の末に焼きいなりを完成させた。販売するにあたり、普通に店頭においても売れないとの考えから、当時「空弁」がブームだったことから羽田空港で販売して大ヒットする。

いなり寿司の難点は、生もののため日持ちせず、店頭販売が難しいことから、冷凍して贈答品として販売する手法に転換すべく、冷凍方法の研究に取り組む。いろんな急速冷凍機を試してみるも、レンジで解凍すると風味が劣化するばかりで、なかなか満足できる急速冷凍機が見つからなかった。そんな時、無類のいなり寿司好きだった某酢造メーカーの当時の社長が、羽田空港で偶然焼きいなりを食べて気に入り、わざわざ同社までやってきたという。自社の酢を売り込むことも目的だったようだが、意気投合したその社長から「何か困っていることはないか?」と尋ねられ、「急速冷凍機をいろいろ試したもののうまくいかず困っている。高額な急速冷凍機ではうまくいったが、高額過ぎて導入できないから、手頃な価格の急速冷凍機を探している。」と答えたところ、その会社の全国の代理店に声かけしてくれ、そんな中から見つかった急速冷凍機の会社に焼きいなりを送って急速冷凍してもらったところ、風味が落ちることもなく美味しく解凍することができ、何とか購入できる価格でもあったことからその急速冷凍機を導入し、焼きいなりの冷凍商品化にこぎつける。

これによって賞味期限も長くなり、贈答用や百貨店のギフトとしても出せるようになったことから、あちこちへ営業に出向いたところ、行く先々で、北陸リネンサプライの名刺を出すと、リネンの会社が焼きいなりと訝しがられ、ネットでも怪しい会社じゃないかと想定外の書き込みをされたことから、別会社にする必要性を痛感し、炊飯事業と焼きいなりは、加賀守岡屋として平成20年に別会社化する。冷凍商品化できたことから、贈答やギフト市場の開拓に向けて、焼きいなりのホームページの充実に努め、ネット販売にも本格的に取り組む考えだ。
(一社)日本リネンサプライ協会北陸支部には十数社が加盟し、その支部長を守岡社長が務め、(一社)日本リネンサプライ協会の理事も務めている。炊飯事業でも学校給食会の副会長を務める。自社のリネンサプライ、炊飯事業に加えて公的な仕事もこなさなければならず、健康第一がモットー。守岡社長には3人の子息がいるが、三男が炊飯事業の加賀守岡家に入社したことから、そちらは少し肩の荷が下りた様子。「ありがとう」を社是に掲げる守岡社長は、社員に対して事あるごとに「ありがとう」という感謝の言葉を大切にし、社員同士はもちろんのこと、仕入れ先、取引先の多くの皆さんのおかげで商売ができることに感謝し、常に相手の立場になって物事を考え行動できる社員を育て、世の中から必要とされる企業であり続けるべく、社員一同と「ありがとう」を唱和する。

守岡 伸浩 社長
| 商 号 | 北陸リネンサプライ株式会社 |
|---|---|
| 代 表 | 守岡 伸浩 |
| 住 所 | 加賀市桑原町へ11番地1 |
| 電 話 | 0761-74-1325 |
| U R L | https://www.hokurikurinen.com |